2006 W杯まで2年、チームの指揮はビエルサからペケルマンへ! 'Pekerman Boys' めざせW杯V3!


アルゼンチン代表の愛称 : (水色と白)
アルゼンチン代表は、Mayores[A代表]、SUB-23、SUB-20、SUB-17 に分けられる。



ペケルマン(Jose Nestor PEKERMAN)
Postion
テクニカル ディレクター(技術監督)
National Debut
'04/10/ 9 vs. ウルグアイ
(2006 W杯南米予選 第8節)
Event directed
 
Standings
0勝0分0敗/0 戦(〜 2006 W杯南米予選 第8節ウルグアイ戦)
アルゼンチン ユース復興の祖。1992 年からSUB-20・SUB-17 代表を率い、SUB-20 代表をワールド ユース選手権で3度 優勝に導いた(カタール大会('95)・マレーシア大会('97)・アルゼンチン大会('01))。その他、U-17 世界選手権3位('95)、アトランタ五輪 準優勝('96)。
 1949/ 9/ 3 アルゼンチン東北部コリエンテス州の人口 400 人の村
 ドミンゲスに生まれる
 一家は経済的に恵まれず、少年時代はアイスクリーム売り
 その後ブエノス アイレスに移住
 MFとして、アルヘンティノスJr[ARG]下部チーム('64〜) 、
 同トップチーム('69 〜'74)で12ゴール/134 試合
 コロンビアのチーム('75)
 インディペンディエンテ[ARG]('75〜'78)
 1973 マチルデと結婚
 1974 W杯ドイツ大会に召集されたが、膝の故障で断念
 1978 インディペンディエンテ[ARG]で現役を終える
 1978 〜 タクシードライバーとして生計を立てる(有名な話)

 1998 アルゼンチン代表監督への就任要請を固辞し、
    M=ビエルサを推薦
 2002 W杯後、M=ビエルサの後任に推されたが、AFAを辞める
 2003 多くのアルゼンチン選手を集めアルゼンチン資本が経営に
    乗り出して注目されたスペイン2部のレガネスの総監督に就任
    → 経営不振により5ヵ月で辞任

 2004 アルゼンチン代表監督に就任。M=ビエルサ前監督と同様に攻撃的サッカーを指向する
2002 World Cup
 前回大会に続いてA代表チームの総監督を兼任し、'01/12 釜山での組み合わせ抽選会の後、キャンプ地の選考に度々 福島県のJヴィレッジを訪れた。
 キャンプ中も代表チームと行動を共にして現場のマネージメントにあたり、二ツ沼総合公園の茶室でコーチ陣で日本茶を楽しむシーンは
Nick name
Birth
'49/ 9/ 3 Dominguez(Corrientes 州)
Clubs
&Seleccion
directed
エストゥディアンテス[ARG]('81〜)
→ チャカリタ ジュニオルス[ARG]('82)
 下部チームの監督となり、同年9つのタイトルを獲得
→ アルヘンティノス ジュニオルス[ARG]('82〜)
→ コロコロ[CHI]('92〜)
→ アルゼンチン SUB-20・SUB-17 代表監督('94〜'02)
→ アルゼンチン代表監督('04/ 9〜)


ビエルサ(Marcelo Alberto BIELSA)
Postion
テクニカル ディレクター(技術監督)
SUB-23 代表監督 兼任
National Debut
'99/ 2/ 3 ヴェネズエラ vs.
Event directed
2002 W杯グループ リーグ敗退(1勝1分1敗)、2004 五輪 優勝(6勝0分0敗、0失点)
Standings
53勝15分12敗/80 戦(〜 2006 W杯南米予選 第7節ペルー戦)
「私の考えでは全ての試合は全く同じだ。主導権を握りどんな状態であろうと勝つ」「選手が機械で出来ていれば私のチームは一試合たりとも負けることはないと思う」・・・前任ダニエル=パサレラのカウンター サッカーを、前線からプレスをかけ、ボールを奪い、細かくつなぎ、サイド突破から波状攻撃を展開する超攻撃型のチームに変えた。
 自身の選択について「絶対とは言えないが」と常に前置きするも「自分の理解していないFBはしない」と終盤 試行錯誤しながらも1-3-3-1-3 のシステムを頑固に貫いた。
弁護士一家の変わり種。迷惑な発言を繰り返す兄ラファエロは現 外務大臣で、姉も政治家。選手としてはアルヘンティノス ジュニオルス・インスティテュート デ コルドバに在籍し、3部のロサリオ セントラル[ARG]でDFとして公式戦3試合に出場しただけの、代表監督としては異例のキャリア。
 だが、通勤時間も惜しみ、運転手を雇って助手席で小型ビデオ デッキで試合を分析しているというFBマニア。試合中はジャージー姿で通し、タッチ ライン際を歩いたりしゃがんだり終始 気ぜわしく指示を出す。特定のインタビューは受けずの会見主義で、いつも記者が全員 帰るまで何時間でも対応。
 失敗に終わったW杯後、協会の台所事情もあって '02/ 8 異例の再任。以降、代表チームはかつてないほどの国民的不人気に。ひたすら堪え忍び、就任6年目にしてアテネ五輪 2004 で17得点、0失点というFIFA史上初の記録で世界の頂点に立つ。
 2006 W杯 第7節ペルー戦が終わって「アルゼンチン代表監督として要求されることに応えるだけのエネルギーがなくなったことに気がついた。」と 2004/ 9/14 突如 辞任。muchas gracias !
resignation.etc
2002 World Cup
 1998 W杯のレギュラーを中心に、1年半の南米予選を過去最高の18戦13勝4分1敗(1敗は第6節アウェーでのブラジル戦)で1位通過。不安視が強かったが国民・メディアを結果で頷かせた。
 「攻撃に出て来てくれれば守備の穴が見つかるチャンスが増えるので、攻撃的なチームと戦うのが好きなんだ」・・・本大会、ヨーロッパ勢の全員守備&カウンター攻撃の前に打つ手なく、40年振りの1次リーグ敗退。帰国後、アイマールが好調だったが故障中のヴェロンを使い続けたことを敗因とした。
 Jヴィレッジへのキャンプ入りで地元の幼稚園児らが出迎えてくれたことに一言お礼をと、翌日ジョギング(恒例になった)の後、張り番のメディアの方に歩いてきて挨拶。ファンの「ビエルサ〜」の声にもにこやかに手を振っていた。
Nick name
El loco(クレイジー・熱中者)、
Psico(精神)・・・繊細周到な仕事ぶりから
Cabezon(頭でっかち・頑固者)
Birth
'55/ 6/21 Rosario(Santa Fe 州)
Clubs
directed
ニューウェルス オールドボーイズ[ARG]
 ('90/ 1 〜 リーグ優勝×2、
  '92 コパ リベルタドーレス準優勝)
→ アトラス[MEX]('92/ 7 〜)
→ アメリカ[MEX]('96/ 1 〜)
→ パチューカ[MEX]?
→ ヴェレス サルスフィエルド[ARG]
 ('97/ 7 〜 リーグ優勝)
→ エスパニョール[ESP]('98/ 7 〜)
→ アルゼンチン代表監督('98/12 〜'04/ 9)


パサレラ(Daniel PASSARELLA)
National Debut
'94 現役時代('73〜'89)はリーベル プレート[ARG]のDF。80年代にはフィオレンティーナ・インテル[以上 ITA]でもプレーし、計 486 戦143 ゴールを挙げる。
2002 W杯本大会を前に、選手らの疲労の様子を見て厳しい結果を予想。
1998 W杯、準々決勝でオランダに1−2で破れる。
Event directed
1998 W杯ベスト8(4勝0分1敗)
Nick name
El Gran Capitan(The Great Captain)
Birth
'53/ 5/25
Chacabuco(Prov. de Buenos Aires)


バシーレ(Alfio BASILE)
National Debut
'90 1990 W杯、決勝トーナメント1回戦でブラジルを1−0で破る。
コパ アメリカ 1991・1993 を2連覇し、33試合無敗記録を達成。
Event directed
1990 W杯 準優勝(4勝1分2敗)
1994 W杯 決勝ベスト16(2勝0分2敗)
Nick name
Coco
Birth
 


ビラルド(Carlos Salvador BILARDO)
National Debut
'83
医師の資格を持つ変わり種で、2003 年にはアルゼンチン大統領選挙に立候補。
1986 W杯、
Event directed
1986 W杯 優勝[V2](6勝1分0敗)
Nick name
Narigon(Big nose)
Birth
'39/ 3/16 Capital Federal
現役時代('58〜'70)はMFとしてサン ロレンソ[ARG]・エスパニョール[ESP]・エストゥディアンテス L.P. [ARG]でプレー。なかなか荒っぽいプレーヤーとして有名だった。代表ではインターコンター コンチネンタルカップ優勝も経験。
 監督としては前任のC=メノッティ氏とは対照をなすリアリストで、いつも心配そうな顔つきで、神経質な印象を与えたが、根はいたって陽気な人物である。緻密な戦略家でカウンター サッカーの信奉者。チームにはD=マラドーナが存在した。


メノッティ(Cesar Luis MENOTTI)
National Debut
'74 現役時代('60〜'69)はFWとして、ロサリオ セントラル・ラシン クラブ・ボカ ジュニオルス[以上 ARG]・ザジェネラル[U.S.A.]・サントス[BRA]・ユヴェントス[ITA]・サン パウロ[BRA]と渡り歩く。
アルゼンチン サッカーの立て役者。初の自国開催となった1978 W杯、当時40歳、D=マラドーナ[MF]
Event directed
1978 W杯優勝[V1](5勝1分1敗)
Nick name
El Flaco(Thin)
Birth
'38/11/ 5 Rosario(Santa Fe 州)


シヴォリ(Enrique Omar SIVORI)
National Debut
'7 リーベル プレート 1955〜57 年のリーグ3連覇の原動力となり、1,000 万ペソという当時 破格の移籍金でユヴェントス[ITA]へ。すぐさまスクデットを獲得し、1960・61 年と連覇して、1961 年にFIFA世界最優秀選手賞・パロンドールをダブル受賞。UEFAチャンピオンズ カップ 1962 ではサンチャゴ ベルナベウで無敗だったレアル マドリードを初めて粉砕した。ユヴェントスに8シーズン在籍して 144 ゴールを挙げているが、その激しい気性でセリエA在籍中シーズン平均3回の退場処分も。また、国籍をイタリアに変更し、1962 年 W杯チリ大会にはイタリア代表として出場(同時期のアルゼンチン代表で彼と共に“必殺のトリオ”と言われたマシオ・アジェリージョもイタリアへ)。アズーリとしては9試合で8ゴールを記録した。記録のみならず、サッカーに芸術を求めた。あだ名はカベソン。197  年にはアルゼンチン代表監督に就任。本大会への出場権を獲得して辞任。
 創立100周年のFIFAが存命する名選手を選んだ「The FIFA 100」に選出。
Event directed
1974 W杯ベスト8(1勝2分3敗)
Nick name
Cabezon
Birth
'35/10/ 2


AFA[la Asociacion del Futbol Argentino/アルゼンチンF.B.協会]
1916 年
 CONMEBOL[南米F.B.連盟]加盟 AFA
1912 年
 FIFA[国際サッカー連盟]加盟
1910 年
 第1回 前南米選手権を主催(ブエノス アイレス)。優勝
1901 年
 初の国際試合(モンテビデオ)。ウルグアイ戦で、3-2 で勝利
 (同時にこの試合は英国以外で行われたサッカー界の初の国際試合)
1893 年
 アルゼンチン サッカーリーグ(1891 創立)を母体に創立
 初代会長はアレクサンダー=ヒュットン=ワトソン[SCO]
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【会 長】  Julio Humberto Grondona(フリオ=ウンベルト=グロンドーナ) 1931/ 9/18生まれ、
      1979/ 4 就任
【会員数】  約 306,000 人  【クラブ数】約 3,035
【Address】Viamonte 1366/76 BUENOS AIRES 1053

Tel   :++54-11/4372 7900
Fax   :++54-11/4375 4410
Telex :17848 afa ar
E-mail :info@afa.org.ar


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